フォトギャラリー 赤水先生の足跡を訪ねて




●多礼が嫁入りの際に目にしたであろう風景を歩く

多礼の実家から赤水先生宅に続く坂道

赤水先生宅に向かう途中にある馬頭観音

     
    

多礼が実家のある方向を振り返った時の景色

赤水先生宅

   
   

赤水先生宅


 












●東奥紀行のゆかりの地を訪ねて


大崎八幡宮



長床



御社殿


彫刻が荘厳です



 

 

長町駅を過ぎ、また広瀬川に橋あり。橋北はすなわち仙台府の口なり。
橋を渡らず西折して行き大年寺にいたる。
総門の側にて「退凡下乗」の石を置く。
石階数百級、中間に楼門ありて金剛神を安んず。
「両足」の二字を扁す。即ち山号なり。
仏殿、回廊、諸殿、黌寮(こうりょう)寮、悉(ことごと)く備わる。
輪奐鉅麗(りんかんきょれい)にして規模を蒐道黄蘗(とどうおうばく)に一にす。
これ麻布公ノ経始なり。
鉄牛(てつぎゅう)禅師を招きて開祖となす。
山内に麻布公、中山公、及び開山師の墓あり。
造営甚だ壮なり。


大年寺



「石階数百級」を登れば、仙台市街が眼下に広がります

 

 

寺後より下れば恋路山なり。
茶店に入りて息う。
南はすなわち愛宕山なり。
陟(のぼ)ること数百歩、その巓(いただき)に神祠あり。
羅経を取りてこれを測るに、街方は皆東に当たり、千門万家、
緑樹翠煙の間に隠見す。
また下りて行き瑞鳳寺に登る。
執鑰(しつやく)の僧に請い、藩祖正宗の祠堂に謁(もう)ず。
彫?丹楹(ちょうかいたんえい)の美は、月光神廟に彷彿たり。
以て大国の富を観るに足る。
扁額は皆佐文山の書くところなり。
歴代の嗣堂ことごとくは拝せず。僧に謝して去る。


瑞鳳寺






涅槃門






瑞鳳殿


瑞鳳殿
感仙殿


感仙殿
善応殿







広瀬川


広瀬川
仙台城大手門跡隅櫓







 


瑞巌寺の参道
新富山から松島を望む

 



善政の地 新発田城


 

 

 

●長崎行役日記のゆかりの地を訪ねて

【明和四年(1767年)9月5日の日記のくだり 行き】
 五日午前四時頃、監曹(おめつけがた)の鳥羽理左衛門、坂部伊介という人が、お屋敷内の中の口で行列を揃え、出発した。
 轎(のりもの)二つ、鎗(やり)二つ、挾箱(はさみばこ)二つ、乗荷(のりに)二駄、小荷駄ニ匹、上下あわせて二十一人である。
 その日は戸塚に泊まる。公的なことはいい加減にできないので暇がない。星が出ている時間に出発し、星の出る頃に宿へ入るため、筆をとることもでき
ず、道中の事を細かく記すことは難しいだろう。
 六日。藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)は、清浄光寺(しょうじょうこうじ)といって、時宗の総本寺である。住持(じゅうじ。寺の主長である僧)は常に諸国を
遊行(修行や説法の旅)をされているという。小栗判官(おぐりはんがん)の事、色々な説があるけれども、こじつけであってその真実は知り難い。


立派な山門
花吹雪の「いろは坂」


真徳寺山門
本堂


手水舎(ちょうずや)には、さくらの花びらが似合います
時宗開祖一遍上人像


宇賀神社
銭洗い弁財天


大銀杏
中雀門 安政6年(1859年)建立


放生池前の枝垂桜


放生池

元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出されました。
『江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし』
こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生されました。 (出典:時宗総本山 遊行寺ホームページ)

 











【明和四年(1767年)9月7日の日記のくだり 行き】
 〜中略〜
 峠の駅で昼食をとる。町半分、伊豆と相模の国境である。一柳豆州が戦死した所といって石塔がある。
 三島明神は大山祗(おおやまずみ)の神を祭る。社中に鶏多く。池には鰻が多い。此所(ここ)より暦が出る。


三島大社
三島市街を流れる富士の伏流水

 


清見寺
清見寺 鐘楼


清見寺 仏殿
清見寺 臥龍梅(家康公が接木した梅)



清見寺 昔は美しい風景が広がっていたのでしょうね・・・


 


浅間神社
浅間神社

 


掛川宿 掛川城
掛川宿 掛川城

   


吉田宿の吉田城


  
 
【明和四年(1767年)9月13日の日記のくだり 行き】 
十三日。宮に宿る。熱田大明神。社領一万石。
日本武尊を祭る。八剣(やつるぎ)の宮は草薙の賓剣を神体とし、
同様の剣七ツ造りて盗賊の防(ふせぎ)とす。
故に八(や)つるぎといふとぞ。



西楽所(にしがくしょ)
神楽殿


神楽殿
本宮


本宮


大楠
上知我麻(かみちかま)神社


別宮八剣宮(べつぐうはっけんぐう)


信長塀 日本三大土塀の1つ。織田信長が桶狭間の合戦で勝利したお礼に奉納された



ならずの梅






【明和四年(1767年)9月16日の日記のくだり 行き】
 膳所(ぜぜ)城下から松本大津まで街が続いてる。左に義仲寺といって、木曽どのの最後のところの墓がある。
 俳人の桃青(松尾芭蕉)の赤もある。大阪で病死したのを、門人たちがその屍を引き取り、この処へ葬ったとのことである。
 松本の辺をすべて「打出(うちで)のはま」という。好景である。
 水際の茶屋に寄って、源五郎鮒を食べながら、盃で酒を飲む。


義仲寺
義仲寺・木曽義仲公の墓


義仲寺・松尾芭蕉の墓
義仲寺・翁堂

       
【明和四年(1767年)9月16日の日記のくだり 行き】
 大津。いにしえの志賀の郡である。町数九十八町。人家四千軒余。札の辻から三井寺(みいでら)へ参詣をする。
 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。観音堂巡礼の札所でもある。地高く千里の目を窮(きわ)むることができる
 伽藍、坊舎が樹林の間にひっそりとしている。古鐘は竜宮から奉納されたという俗説がある。水底にもまた鋳物師がいたのか、笑ってしまう。
 何者かが草史に書き記して偽(にせ)を伝える。しかし、その形象は普通の鐘とは異なっていることから、外国からの伝来の物だろう


三井寺・仁王門
三井寺・仁王門から金堂に向かう参道


三井寺・金堂
三井寺・金堂


三井寺・晩鐘
三井寺・弁慶の引摺り鐘


三井寺・一切経蔵と三重塔
三井寺・唐院への参道


三井寺・金堂を望む
三井寺・観音堂(西国十四番札所)



三井寺・観音堂から琵琶湖を望む


   






 
 
【 大坂到着 明和四年(1767年)  行き:閏9月17日 】
 17日の朝。天満橋の下の八軒屋に着く。古歌によむ大江の岸は是である。
 渡辺のはしは絶えて今は名ばかりである。
 升屋の某所へ荷物をあげ、食事などする所へ、長堀富田屋町「海老屋」大吉の手代、吉兵衛などという者が来て、豊前小倉までの船の世話をし、
水戸藩の「水」の字の旗印などを染めさせる。
 ここは狭くて不自由だから、「長町奈良屋」理兵衛の所へ移り、小倉の帰りの舟も雇う。蛭子丸(えびすまる)という八反帆(はちたんほ)で、長さは七
間、船のりは5人。
 天気は良くならないため、2〜3日逗留する。住吉明神、天王寺伽藍、生玉明神、高津宮、神明、天満、両門跡(もんせき)、座摩(ざま)社、阿彌
陀池等を順礼した。
 当城は天下の名城。その石垣は高く、堀の深さ、実に海内無双である。玉造口(たまつくりぐち)より、追手口、京橋口まで見て回った。
 猿面王(ひでよし)の気性がわかるようで、感動した。






八軒家船着場(八軒屋)

 
生玉神社(生玉明神)
生玉神社(生玉明神)


四天王寺・六時堂
四天王寺・六時堂
四天王寺・五重塔
四天王寺・金堂と五重塔
四天王寺・大黒堂
四天王寺・大黒堂

四天王寺・中ノ門

 
 
【 須磨の浦 明和四年(1767年)  行き:閏9月26日 帰り(明石城下):11月19日 】
 須磨の浦に至った頃、風がにわかにやんでしまったので、一の谷の汀(みぎわ)に船をとどめて風を待つ。
 人々これを幸いに小船に移り、陸に上がり、須磨の里、綱敷天神から光源氏や行平の旧跡を尋ね、重衡が生け捕られた所という、古い松が四・五
本ある辺りから須磨寺に入った。
 門の額に上野山福祥寺とある。額板は昔の軍(いくさ)の時の馬盥(ばたらい)といって凹(なかくぼ)となっているものである。
 門前に若木の桜、庭に義経の腰掛松がある。
 鐘は丹生(にぶ)の山田安養寺から軍(いくさ)の時に取り寄せて、松に懸けた鐘とのことである。
 寺僧にお願いして宝物を見せてもらった。敦盛の笛、甲(よろい)、冑(かぶと)、直実、弁慶などの直筆のものなどを見た人は、感涙を催した。
 一の谷の下に来れば、土地の色は左右に谷をわけて、西は赤、東は白い所がある。
 躑躅も各々色を分けて咲くために、これを源平つつじという。花が咲く時ではないので、それが本当かどうかはわからない。
 寿永(じゅえい)の皇居は汀に近い山の上にある。よじのぼって見ると、平地の所は東西一町ばかり、畑となっており、中に帝座の跡だという所に古い松
が六、七本ある。北の方は一の谷の上の山。鉄拐(てつかい)が峯に連なっている。義経が鵯越で襲来したのも、このような所であったのだろう。
 三の谷の下で、汀に近い所の道のはたに敦盛の石塔があった。砂に吹き埋められて、五輪の塔の半分しか見えない。
 ここから引き返して舟に乗る

 一谷覧古
 知る、こ是れ、源平の古戦場     
 須磨明石ぼうぼう茫々たるを望む      
 せいき旌旗の赤白、今いづく何にか在る     
 ただ只、青山の夕陽には映ゆるあるのみ  

 「訳」
 かつて、ここは源平の古戦場であったが
 須磨、明石の広々とした景色だけしか見えない
 源平の赤白の旗はどこにあるのだろう
 今はもう、夕陽に映える青山だけしかない



 敦盛墓
 松風にぎょくてき玉笛の響き        
 せいし旌幟 白雲た垂る        
 せきじつ昔日ひか飛花の地         
 後人涙をおと堕すの碑        

 「訳」
 松風は、敦盛の笛のように響き
 白雲は源氏の白旗のように垂れこめている
 ここはかつて敦盛が若くして散った場所であり
 後世の人々が涙を流す石碑がある


 時間は過ぎても風が吹かないので、汀近くを漕いで行く。
 明石城下の川口へ、夜に入り、舟をとどめた。大坂より海上十五里の所である。  
 





綱敷天神
綱敷天神(現在はサーフィンの神様として有名です)








須磨寺
須磨寺


須磨寺 弁慶の鐘
一の谷

  

 

敦盛塚
敦盛の五輪の塔


明石城
明石城



明石城から明石海峡大橋を望む


 



【田浦〜小倉(九州上陸)明和四年(1767年)  行き:10月6日 】
 辰の刻より漕出し、沖に出れば順風なり。
 周防灘三十四里を過ぎて夜半に豊前の田浦(たのうら)に着く。
 翌朝五ツ時より押し出す。
 左は豊前、右は長門、相距(さ)ること僅かに五六町
 左の海岸に早戸茂(はやとも)明神あり。
 毎年十二月三十日夜半、社人海中に入て和布(わかめ)を刈るゆえ、めかりの神事といふ。
 一里ほど行きて右は下関なり。


  早戸茂明神=めかり神社


  このこの鳥居の下が海です

 ここで、めかり神事が行われます


  下関は目の前!潮の流れは速く、 まるで川のようです
 

 

  

 

【小倉に立ち寄る 明和四年(1767年)  行き:10月7日、帰り:10月23日 】
 10月23日、風が悪く船を出せないため、赤水先生は町を見物。町家も賑やかでない。大坂の尼が崎の方が賑やかだと記しています。
 その後、国守の菩提寺 広寿山福聚寺(ふくじゅじ)を訪れます。
 宿に戻れば、祖先は細川家の臣であったという、主の又兵衛が、幽斎玄旨の真跡の短冊、大友義統の手紙、黒船乱の絵図などの珍物を
 見せてくれたそうです。また、又兵衛が赤水先生の詩を欲しいというので、大宰府の「菅廟」の詩を与えたが、翌日、麗しい色紙十枚に
 詩を書いてくれと言って来たので、平家蟹の詩、八島の詩の二絶句を唐紙に書く。又兵衛は餞別として、墨流しの色紙、船中の食用にと
 魚醤(たたき)、小倉名物の三官飴(さんがんあめ)を赤水先生に贈る。赤水先生は又兵衛を「やさしい男であった」と評しています。


小倉城


小倉城の隣にある八坂神社


天守閣より城下を見下ろす

 
 廿三日。小倉に着く。風あしくて出船ならず。町へ出て見物す。町家も賑かならず。攝の尼が崎にも劣れり。
 十丁斗東南の山に廣壽山福聚寺とて、國守の菩提所有。給地三百石唐僧即非(そくひ)の開基。則此處にて遷化すといふ。
 寺僧を瀬み嚮導(あんない)せしむ。諸堂墓所鎖(じょう)を開きて順禮す。小笠原の先祖墓所の額は関國元臣即非の筆也。
 碑銘讀みかゝりしが長ければ果さず。其外代々の霊堂皆石にて造る。石垣、石塔、実に厳然たる諸侯の墓なり。
 客殿の後開山堂即非の像を安す。香爐(こうろ)、臺(たい)の木は即非の携來(たずさえきた)りし名もしれぬ木也。
 諸額、聯榜(かけいた)、多分は即非。あるひは隠元、木庵、法雲、の筆なり。就中總門の額は第一関。三門の額は廣壽名山福聚禪寺。
 即非の筆跡文字活動するがごとし。志ばらく眸(ひとみ)を凝して出づ。
 
 「廣壽山福聚寺」





   
  
 
 

 




  

行き:10月7日
本日は雨。
冷水峠を越える。風烈しく行人甚だ苦しむ。
山家(やまいの)駅で昼食。
四、五人相伴って大宰府へ回る。
六本松の近道を小川に沿って上る。
右の方に巍然(ぎぜん)たる法満山。古歌によむ竃(かまど)山。筑前第一の高山である。
権現は天狗であって霊験新たなる故、国中尊信して繁昌している。寺院二十五坊、麓から一里余り登るという。

山家から二里ばかりで暮方に大宰府に到る。
天満宮の境内は、古木が茂って神さびていた。
石の鳥居、石の橋、二王門、別殿、東西の法華堂、薬師堂、浮殿、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼などである。
後ろに多数の末社がある。本社の前、左に飛梅、右に一夜の松、これを柵(やらい)をもって囲んででいる。
御詠歌によって生じたので、追松という。飛梅という。折る人がつらいと惜しまれる物である。
池は心の字の形であるといって、島があって三つの橋をわたる。
池辺に老楠が数株ある。その中に二、三本、甚だ大木で、摂州天王寺にあるよりも大きい。
池中に雁、鴨おしどりなどが群集し、鯉、鮒などが遊泳して人の足音がするのを待っている様子にみえた。

  


太宰府天満宮 本社
太宰府天満宮 本社



太宰府天満宮 「飛梅」


  

 
 
【明和四年(1767年)10月9日 行き】
十月九日。神崎にて昼食。
佐賀城下を過ぎる。鍋嶋侯三十五萬石。むかしは龍造寺城と言った。
町より十町あまり南に在るため、見ることができない。
この辺より四方に高い山がある。先ず西南に多羅嶽。南に温泉嶽。東南には柳川の山。
東に久留米の諸山。西南に川上山。北に阿弥嶽。
筑前の千部山等がつらなっている。
その日は峯々に雪が少し在って風が寒い。牛津にやどる。

佐賀城(龍造寺城)のお堀


龍造寺八幡宮(佐賀八幡宮)
龍造寺八幡宮の前は長崎街道
車窓からの山々

 
 
【明和四年(1767年)10月10日 行き】
十日。この辺路傍の山野に山梔子(くちなし)あり。
塚崎にて昼食。温泉が在る。山畠に棕櫚(しゅろ)、茶梅(さざんか)がある。
さざんかは皆白い花をしている。実からは油をとる。ここでは小椿(こつばき)という。嬉野に宿る。温泉がある。


塚崎宿は、現在の武雄温泉近辺にありました。 武雄温泉楼門(大正4年築)


武雄温泉新館(大正4年築)



武雄の方々は、御船山(みふねやま)を見ると、故郷に戻ってきたと感じるそうです











【明和四年(1767年)10月11日 行き】
園木(彼杵・そのぎ)で昼食をとる。これから時津へ舟で七里、舟を雇う。六反帆で船員は5人。ここは海口から大村まで十里余の入り海である。迫門(せ
と)は僅かに一、二丁ばかりで、島原の早崎、阿波の鳴門とともに日本三所の迫門であるという。ちょうど海豚魚(いるか)がおどりはねて面白かった。長さ一
間ばかり、色黒く鯨のようである。小島が数多くあって絶景である。中でも黒島は、野鼠がいて、いたちのようである。昔、ある人が猫を入れたらば却って鼠に
かみ殺されてしまったという。向こうの出崎という処に竹山があり、まわり一尺四、五寸もある竹があるという。申の刻に時津に着いて酒屋に宿る。

長崎街道 正面が嬉野方面 嬉野方面

彼杵宿本陣跡 かつて彼杵神社付近に本陣がありました

脇本陣の仕切り図 赤水先生の名前もありました!

長崎街道 大村宿方面 かつての船着場

元禄船着場跡


元禄船着場跡 八坂神社 赤水先生も舟旅の安全を祈願したのでしょうか?

大村湾


船着場から大村湾を望む

 

【明和四年(1767年)10月12日 行き】
 朝雨降る。髪を頭の中央にかけて剃りなどして、用意をして静かに出発した。
 一里ほど行くと、長崎からの迎えの人が、麻裃の正装をして追々五、六人が来る。馬次(うまつぎ)の先触れで知ったという。この辺は、路傍に豚あるい
は山羊を放し飼い、所々に徘徊している。これを問えば、長崎へ唐人どもの食料に売る故に、多く飼い置くのだという。
 八ツ時に長崎に着く。かねて宿割りは定まっており、小林氏、堅田氏と私は桜町の伊勢屋理左衛門の所である。鳥羽氏、坂部氏の旅宿は田中菊
左衛門といって桜町の乙名(おとな。村落の代表者)である。又、その隣家の組頭(くみがしら)加藤次処に宿る者もあり、すべて饗応膳部(きょうおうぜ
んぶ)が丁寧で、亭主はもちろん、給仕人までみな裃である。奉行所の役人、並びに通事人などが、代わる代わる来て、遠路はるばるご苦労さまと慰め
てくれた。なかでも通事目付の高尾嘉左衛門は水戸藩に恩顧のある者なので、しばし伺候し、漂流のこと、異国の物語などがあったけれど、私は遠慮
するところ(赤水先生は身分が低いため、直接口をきくことができない)があり、ただ見ただけで打ち過ぎた。

 十四日、奉行所からご馳走のため案内人があって、異国人の館舎に入って一見した。
 先ず阿蘭陀(オランダ)の屋敷は出島といって、内海へ築(つ)き出して、四方の石垣は甚だ厳密である。石橋一つでもって出入する。門の側に番所が
ある。入口に禅寺の刹竿(せっかん)のような旗柱がある。家々に楼(にかい)があって、楼の窓からオランダ人どもがさし覗くのを見れば、目は光り眉毛赤
さび、人相は甚だ怪しい。側に女も見える。この地の遊女であるという。同行の人みな厨下(だいこどろ)から入って階段を登る。その時に紅毛人(こうもう
じん)も出迎えて案内した。その顔色は甚だ白い。頭髪をそって黒髪のかつらを被(かぶ)る。衣服はこの方の股引の如く、手足をくるみ、釦(ぼたん)で締
め、上衣も袖がなく、前は釦で合わせ、腰下は分開(さけ)て、日本の軽業装束(かるわざしょうぞく)に似ている。みな羅紗(らしゃ)の類である。





水門(復元) オランダ船長部屋、輸入品倉庫などが復元されています

オランダ商館次席(ヘルト)の住居(復元) オランダ商館長(カピタン)部屋(復元)

オランダ商館長(カピタン)部屋(復元)


 また、節季を量る時計であるといい、硝子の筒二本内へ水を入れ、板につけて壁に掛けておく。その板に文字があるけれども、蕃字(ばんじ。ここでは
オランダ語)であるために読むことが難しい。
 蘭人(おらんだじん)はつねに四方の壁に、その本国の絵を額のように数多く掛けている。画面に硝子を張ったので、すきとおって見える。周囲の荘厳
(かざり)は甚だ美麗である。絵は山水、人物といろいろあり、筆は細密であって突然では見分けがむずかしい。 また、大鏡を所々にかけておく。座敷は
殆ど二階で、日本のように畳を敷き、中央に机を設け、フラスコの注子(すず。酒器)の類を並べておく。皆、名酒であるという。フラスコの中に竈竜蛤?
(たりゅうこうかい。?部分は表記不能な漢字)を薬水(やくすい。ホルマリン)で蓄えている。鱗は動き出すように見える。側に交椅(いす)が数々あり、船
頭と筆者は常にこれに座るのである。
 このとき筆者(ともとり)のリュウトル・フロイトマンという者が出て、上客に対して丁寧なおじぎをした。通訳の人があまた従っている中でも、西善三郎は蕃
語をもって会話をするので、彼の筆者は頭を床につけて拝伏し、終わってまた立って交椅に座った。その前に机を出す。筆者は直ぐに筆を把(と)って蕃字
を七、八つ紙に書く。文字の形は雲を画くようである。左の方から書き始めて右のかたへ横行きに書く。通訳人の訳文が無ければ、何の字ということを知
らない。紙は日本の奉書紙(ほうしょがみ)に似ている。筆は石筆のようで鳥の羽茎の本の乾燥したもので、尖(とが)り所に刻目(きれめ)があって墨汁を
ふくむのである。
 紅毛どもは種々の乾菓子(ひがし)を持ち出して茶をすすめる。又、葡萄酒(その色は赤、黒である)、アネン酒(味は甘辛で砂金入り)、フソウロ酒
(色は薄白くて泡盛に似ている)、肴はカチンの実、生姜の蜜漬け。肉荳蒄(にくずく。ナツメグ)など。フラスコの注子や硝子のコップという盃で酒をすすめ
る。














節季を量る時計?







晩餐風景の再現模型
 暫くあって階を下り、又、花園の上にある楼に登る。座敷の中央に床のようにして足の高いもの、横六尺、長さ一丈ばかり。羅紗で包み、四方の隅に
穴がある。通訳人に問えば、紅毛人が丸(まり)をもてあそび賭勝負(かけもの)をする所であるという。台所へ行ってみれば、豚、牛、などを屠撃(とげ
き)して甚だなまぐさい。かまどの前に鬼奴(こくじん)四、五人が居る。その中に童子もいる。年齢を聞いても通じない。私が両手の指を開いて見せたらば
点頭(うなず)いてしりぞいた。十歳ばかりと見られた。顔色は薄黒く、髪は巻いて茜の木綿切(もめんぎれ)で包んでいる。
 台所のわきあたりを廻って畜舎を見れば豚四、五匹、牛十七、八頭飼っていた。牛は日本の牛より甚だ小さい。角は短く耳は大きく形もすこし異なる
のである。その時々の珍しい食物がいわゆる稷牛(しょくぎゅう)なのだろう。日本の牛より大きいのもいる。これをば道生田(どうしょうた)という所へ放(は
な)し牧(がい)をしておくという。
 紅毛人の姓名を通訳人の発音で記す。船頭をカピタンという。筆者をトモトリ、日雇頭をテンシャ、料理頭をコンハンヤ、料理人をクロス、日雇をマタロ
スと云(い)う。
 一 カピタン 名はヤンガラス 年三十四
 一 同ヘトリ 名はアアテレヤア・ハストウチアル 年三十
 一 巳年から在留の筆者、名はヒイトル・コストル 年四十二
 一 当年(ことし)渡った筆者、名はリュウトル・フロイトマン 年三十七
 一 同 ヘンスレキ・コユフコッフ 年三十七
 一 同 ヤンテンキ・ケエルリンキ 年二十九
 一 同 ヒイトルヘイストルヘイト 年二十四
 一 同 レンケルヘル・トストサアカ  年二十四
 一 七年在留の上外療 ヒリツフリ・レウナアルト 年三十七
 一 当年渡ってきた下外療 ヤンフラン・ステホウト 年二十七
 一 去年から在留の花作り ヘルメヤンス・ワルランヘン 年四十七
 一 酉年から在留の大工 ヨウハンケレス・テヤンフレンニンキ 年三十三
 一 去年から在留の縫物師 カスフルハンリンキ 年二十五
 一 当台所の役 ヤンフレイテレキ・ヤストル 年二十四
 外に黒人二十四人、合わせて三十七人。

 オランダ船は、七月に来て九月二十日に帰る。一艘の乗組員百人ずつではあるが、このごろは、甚だ少ない。定令(じょうれい)で、加比丹(カピタ
ン)、閉止留(ヘトリ)など二、三人、長崎役人一人、並びに通訳一人を添えて上下十人余が、正月十五日に長崎を出て、伝馬(でんま)で江戸まで
来て、三月一日に将軍に挨拶(おめみえ)である。
 長崎へ入港の最初は、寛永十三、子の年である。出島町の長さ百十八間、横三十五間半、家数は二十五ある。紅毛は、いにしえから死人があっ
ても自分でおさめ、一切仏事をやらない。この出島町は、寛永十三子の年に築いて南蛮人をおいたが、卯の年から南蛮人の入港御停止(ごちょうじ)に
なる。今は紅毛陣の館となってしまった。地子銀、宿賃銀、合計五十六貫百目、碇(いかり)一つで役銀一貫目ずつ、金にして千両ほどずつ、紅毛人か
ら年々出すという。

 「紅毛館」
 王制従来遠民を柔(やわ)らぐ
 紅毛委質(いしち)して けい津(しん)に在り
 五風十雨(ごふうじゅうう)西洋の外
 道(い)ふ勿(なか)れ東方聖人無しと
 【訳】
 日本は元来、王道の国で遠国の民に優しい
 今、西洋人が仕官して長崎にいる
 西洋の外にも、こんな平和な国がある
 東方に聖人がいないなどとは言ってくれるな


ビリヤードの原型 乙名部屋(復元)

乙名部屋(復元)


出島


出島




 それから、十禅寺の唐人館へ行く。大門に入るときに村雨(むらさめ)がにわかに降る。当所の前の家に入って晴れるのを待つ。その時に唐人ども十人
ばかりこの辺に徘徊して相共(あいとも)に談笑した。唐音の中に日本語を使う者もいた。その人物は賤しくはない。顔つきは日本人に変わらない。しかし
ながら、頭髪を剃って百会(ひゃっかい。つむじ)の所を直径二寸ほど円く剃り残した髪の毛を三組にして、羽織の紐に似たのを後ろへ垂れ下げる。帽(か
ぶりもの)は、かぶと頭巾のしころがないような物である。頂きの尖(とがり)の所へ、赤い絹糸のようなものをくくりつけ、猩々(しょうじょう)の髪のように散ら
し下ろす。外套(はおり)は日本の半合羽(はんがっぱ)に似て、前を釦じめにし、裙(くん。もすそ)は、裳(も)の両脇を合わせない。前垂れを前後から懸
けたように見える。すべて清朝は韃風(だっぷう。蒙古風)で、公卿大夫に至るまで衣冠を用いない。これが風俗であるという。
 しばらくあって雨やむ。中門をこえて土神堂を礼し、それから台所の口の腋(わき)から梯子をのぼり楼に入る。唐人二、三人出てきて丁寧におじぎをし
てから案内した。座敷には毛氈(もうせん。じゅうたん)を敷きつめている。案内の通訳、高尾嘉左衛門、その子の兵右衛門が、中国語で唐人と話す。す
ぐに茶をやくして出す。味わいは甚だ淡薄である。饅頭、カステラ、れいし、竜眼肉などの菓子をお膳にもって、三十膳ほど座敷の中央(なかほど)になら
べておく。外国の風習と見てとった。
 この中に四つ人形のような飾りものがある。四隅とも大根のつくり花である。
 唐人どもの給仕によって、我々まで賞味した。游樸庵(ゆうぼくあん)が学才があるのを前々から聞いていたけれども、許しが出なければひじを交えて筆
談することができない。ただ目礼をして退いた。終生のうらみと残念に思った。
 関帝王の社もあるというが、雨が降り忙しく出発するために礼をしなかった。この十禅寺の館地は、むかし御薬園(おやくえん)だったが、貞享五年辰年
から地割普請(じわりふしん)がはじまって、元禄二年巳年の年から唐人館となる。百四間四方で家数十五がある。同じく四年に蔵を建てる。唐船入港
の最初は、寛永十二亥の歳である。当時入港し滞留していた。船は二艘、船頭、財附(つあいふう)、総官(うおんかん)、影長(はいちょう)、舵工(た
いこん)、頭掟(とうてん)、亜班(あはん)、香工(ひゃんこん)、杉板工(さんはんこん)、工社(こんしゃ)、上下ともに百四、五十人が館中に滞留するの
である。 


唐人屋敷跡 唐人屋敷図

土神堂


土神堂 旧唐人屋敷・観音堂






十六日、神社仏寺へ参詣する。
〜中略〜
総じて長崎は石自由の処なのか石橋おおく、太鼓橋、眼鏡橋がある。その外、寺々の石垣、石橋、みな城畳のようである。これまた、他処(よそ)には
稀なことである。


眼鏡橋 水面に映る姿は、まさに眼鏡です















 
  
【明和四年(1767年)10月26日の日記のくだり 帰り】
 26日丑の刻、下関に到着。27日、逆風なので逗留し、陸へ上がり亀山八幡へ参詣。
 祠堂(しどう)は海岸にのぞみ、おもしろい風景である。

 直ぐに後ろから下りて、三、四町東の方に阿弥陀寺がある。寺僧が出て案内する。
 安徳天皇の陵(みささぎ)の上に廟があって、帝の木造を安置し、左右の障子に二位の尼内侍(ないじ)、及び平家一族の像を描く。
 古法眼元信の筆である。次に廟廡(びょうぶ)三面の壁紙に金を張り付け、平家一代の盛衰合戦の始終を図にしている。
 土佐光信の筆である。後ろの山岸に、壇ノ浦へ入水(じゅすい)した人々の石塔がある。私は感にたえず一律を作る。

 「安徳帝の廟に謁す」
  海岸より古寺に入れば  帝廟おのづから荒涼(こうりょう)
  華族僅かに碣を留め   戦図なほ画廊のごとし
  幽燐野径に飛び     霊鬼沙場に哭(こく)す
  一たび龍剣を失いしより 今に至るまで長く腸を断つ
 「訳」
  海岸より古寺に入れば、 安徳帝のみたまやは、荒れるがままである。
  ここで戦没した貴族の方々は、ただ石碑にその名をとどめているばかりである
  戦争の絵は画廊のように当時の様子をまざまざと描いている
  恨みをのんで死んだ霊魂は、荒野の小路に火の玉となって燃え、沙場でむせび泣いていることだろう。
  神器の一つ「草薙の剣」は、この時失われ、 今に至るまで人々に断腸の無念さを抱かせている

亀山八幡より関門海峡を望む
関門海峡(対岸が門司) 結構流れが早いです


関門海峡
対岸にはめかり神事で有名な早戸茂明神(はやともみょうじん)が見え


赤間神社(旧阿弥陀寺)
赤間神社(旧阿弥陀寺)


赤間神社(旧阿弥陀寺)
赤間神社より関門海峡を望む


平家一門の墓(七盛塚)
耳なし芳一を祀る「芳一堂」

 





 町へ出て名物の硯を買う。柴石は当地の浅村から出る。青石は豊前国田の浦の大積山から出るという。
 当地は赤間が関とも門司が関ともいっている。人家は数千軒、平生の入港の舟は数百艘、繁華は大坂に似ている。
 稲荷町という所は娼家(ちちや)がある。そのうちに歌舞伎をする茶屋が三軒あり、銀三百目を与える者があれば、直ぐにでも舞うという。
 その後、幸いに大坂屋に興行があり、舞台は江戸の湯島芝居よりも広い。装束は堺町にも劣らない。
 間には錦を着たものもおり、浄瑠璃は義太夫で富士見西行である。悪方、あら事、おとこだて、法師、奴など、みな女である。
 しどけないけれど面白い。見物人すべて揚屋の案内で入る。
 案内のない者も無理に入ろうとするため、門の入口に群集し、押し合い揉み合い喧騒甚だしい。年寄り子供は入ることができない。
 桟敷は三百人を限りとする。橋かがり、中道などがあって、菓子売り、番付売りなど立ち巡り、まるで娼家の内とは思われない。

 その次の夜は堺屋でもって物草太郎を舞う。舞台は二階に構えてある。
 いずれも役者は一軒ぎりで事が足り、ただ音曲ばかりを雇うという。石見屋とかいう所では山庄太夫(さんしょうだゆう)の戯があった。
 どちらも優劣がないとの話、鄭衛の声女楽の戯れ、記すに足りないと思うけれど、またその土地の風俗を見るべきである。

 戯れに遊仙窟を賦す、五首

 其の一
 深く洞門の裏に入れば 楼台別に春有り
 世間都(すべ)て管(かかわ)らず 応(まさ)に是れ秦を避くるの人なるべし
 「訳」
 深く洞門の内に入ってゆくと、そこには楼台(たかどの)があり、ここは人間世界とは別の春の国である
 ここに住む人々は、俗界とは何のかかわりもない。おそらく秦の暴政を逃れてきた人々に違いない

 其の二
 仙女は顔(かんばせ)玉の如く 合歓の盃、幾たびか傾けし
 憐れむべし琴と瑟(しつ)と 猶(なお)、鳳凰の声あり
 「訳」
 仙女の顔は玉の如く美しい 男女歓喜の盃を、何度も傾け
 まるで鳳凰の声のような美しい琴と瑟の音を心から楽しんだ

 其の三
 美人長袖(ちょうゆう)動き 並びて玉欄干に立つ
 為(ため)に舞ふ霓裳(げいしょう)の曲 勿ち疑ふ広寒(こうかん)に到るかと
 「訳」
 美人の長い袖が動き 玉の欄干に並んで立つ
 自分たちのために「霓裳羽衣」の曲を舞ってくれると 天上の月宮殿に来てしまったのかと錯覚してしまう

 其の四
 銀燭(ぎんしょく)瓊筵(けいえん)の上 青精(せいせい)と玉漿(ぎょくしょう)と
 楽しき哉(かな)仙窟(せんくつ)の趣き 亦(また)自ら劉郎(りゅうろう)に似たり
 「訳」
 玉で飾った敷物の上には銀燭が輝き 青い酒と玉のような水が並べられている
 仙窟の趣きは、なんと楽しいことだろう 自分もまた、浦島太郎のように時間の感覚が麻痺してきた

 其の五
 灯火(ともしび)金屏を背にして暗く 香薫(こうかお)りて錦褥(きんじょく)開く
 陽台雲雨の夢 忽(たちま)ち枕頭(ちんとう)に向かって来る
 「訳」
 灯の光は金の屏風でさえぎられて暗く、えもいえぬ香がただよい、錦の寝床のかけ布団が開いて待っている
 男女のひそかな戯れを想像していると、たちまち仙女が枕もとにすりよって来た


 里人の話によると、朝鮮の使いがやってきたときは、長崎へ着いては不便なために、対馬から筑前のあい島を経て、直ちにこの津に着船する。
 また朝鮮の漁舟(りょうぶね)は、年々四、五艘は当国の北浜へ漂流する。陸地をここへ連れて来て長崎へ送り、それから対馬へ遣わすという。
 下の関から壱岐へ五十一里、壱岐から四十八里、朝鮮へ四十八里であるという。
 このところ毎日東風(こち)が吹き続け、日数八日を逗留した。ここにおいて、漂流人どもに聴いて、安南記二巻と漂流海上図を作る。


末廣稲荷神社
平安初期の大同4年(809)9月7日に祀られた下関最古の稲荷神社


明治末期の稲荷町
現在の稲荷町 かつて赤水先生もこの辺をほろ酔い気分で闊歩してい
たかもしれませんね?

     



     
 【明和四年(1767年)10月5日の日記のくだり 行き】
  五日の暁、周防の上の関に着く。右にせんばか獄がある。岩上は、青松の屈曲がまるで絵のようである。左の島に長門侯の茶屋がある。
  左右の海岸は人家がみな同じ状態に連なっている。その間は舟の通り道で、甚だ奇絶の処である。かろうとからここまで十五里。
 
 【明和四年(1767年)11月4日の日記のくだり 帰り】
  上の関へ戌の刻に着く。船に酔うものが多くいた。


上関大橋からの眺望
上関大橋からの眺望


上関大橋からの眺望



上関大橋によって上関は陸続きになりましたが、赤水先生はこのような景色をご覧になりながら、上関に到着されたのです


赤水先生の日記の通り、奇絶の地です


阿弥陀時
北前船で栄えた商家が現存。おもかげをしのぶことができる


上関御番所
上関御番所


上関御番所より町を望む
上関御番所からの眺め


御茶屋跡
対岸より上関を望む

 

 【明和四年(1767年)11月6〜7日の日記のくだり 帰り】
  六日、順風で宮島に到着する。島と陸との間は半道ばかり。潮は早く大河のようである。
  鳥居の前を過ぎたが、風が強く当って船が着き難い。山陰の松浦という所まで行き過ぎて碇(いかり)を下す。

  七日、朝、舟から出て半里ばかり松山を上下し、宮島の町に入る。家数千軒ばかり。娼家などがあって賑やかな所である。
  宮の後ろと左右は岩山で囲みめぐらされて、前一方が開いている。港に鳥居がある。潮干の時は陸となり、
  汐満ちれば本社の縁下まで水はめぐり、百八軒の回廊宮殿は、みな海中から湧き出したように、実に無双の壮観である。
      〜中略〜
  その外百二十社、五十二人の社職、四十ヶ寺、二十一坊の社僧がある。
  祭礼は年に七十二度、市の立つのは年中に三度、とりわけ六月十七日は大祭礼である。
  御旅所(おんたびしょ)は地の御前といって、海を隔てた地の方にある。
  それから長浜、大元まで引き連なって舟橋がかり、船には管弦が用意されてある。
  参詣人は隣国から群集し、商買(しょうか)、歌舞伎、浄瑠璃、観物(みせもの)、遊女の類、月初めから参り、寸土尺地も金銭になる故、
  宮島の人は年中の生計(すぎわい)をこの祭礼に得るという。
  西国の大市(おおいち)は、市という。中でもこの宮島は第一である。


船から大鳥居を眺める
大鳥居


厳島神社の回廊
厳島神社の回廊


厳島神社の回廊
能舞台

 

 【明和四年(1767年)11月7日の日記のくだり 帰り】
  それから弥山(みせん)に登る。奥の院である。
  頂まで十八町、石山で赤松や栂樹(とが)が生い茂り、奇石怪巖の間に神社仏閣が四十八戸。
  絶頂から東北の諸島、広島の城下まで眺望できる。甚だ勝景の地である。
  常に殺生禁断のため鹿や猿が多くいる。鹿は町家にむらがり、舟までも来て食を求める。
  児女子とも馴れて触れ遊ぶゆえに、怪我が危ないといって角を鋸(のこぎり)で切る。町家に徘徊する鹿は、みな角がない。


間近でみる鹿はとてもかわいいです
弥山からの絶景


 今はロープウェイで中腹まで登れますが、この険しい山を赤水先生が登ったのですから、驚きです。苦労した分、絶景が心に染みたと思います。
   
  
   

【明和四年(1767年)11月12日 帰り】
 赤水先生はかねてより書写山へ登山したいと思っており、ここで登山しなければ生涯の恨みとなるということで、姫路城見学のあと、
 宿に戻り、夜の登山を決行。月明かりの下、曲がりくねった山道を登り、ようやく仁王門へとたどり着く。
 (私は東坂を登りましたが、この急な山道を赤水先生が夜に登ったかと思うと、頭が下がります・・・)


仁王門
壽量院


摩尼殿(まにでん)  清水寺のような造りが圧巻です


摩尼殿(まにでん)



摩尼殿の眼下には紅葉。秋はとても美しいそうです


瑞光院
きっと赤水先生もご覧になったかもしれない?大木


三つの堂 (ラストサムライのロケ地です)
正面が大講堂


本多家廟所
大講堂


食堂(じきどう) ラストサムライにも出てきます
食堂の二階から望む


鐘楼
法華堂


金剛堂
姫路の街並みを見下ろす

赤水先生は山を下りると、坂本で籠を雇って帰るのですが、あまりの寒さに人家に入り、粥を炊かせ、いろりで温まってから出発。書写から室まで六里を進み、船に着く頃には暁となっていたのでした。


姫路城
小豆島より瀬戸内海を望む

 
【明和四年(1767年)11月18日の日記のくだり 帰り】
 十八日。室を出て二里、正條にて馬をつぎ、姫路に到り昼食す。此のとき五六輩高砂廻りを約す。
 〜中略〜
 加古川の下流也。宵閣にて道辻も見分け難し。渡し守の言葉に、高砂の松、尾上(おのえ)の鐘、夜に入ては決て見る事ならずと云。
 同行の人皆望(のぞみ)を失ひ。特に甚だ草臥(くたびれ)たり。中途より加古川へ行んとす。予とやかく云直(いいなお)して強(しい)ていざな
ひ、 
 廿町ばかり行て高砂明神に詣る。社へ願ひて門をひらかせ、提灯にて社を拝す。
 祭神は牛頭(ごず)天王なり。昔の松は絶え今あるは植つぎ也。片椏(かたまた)づつ男松女松。
 これまた世に稀なり。高砂の里は家造よろしく見ゆ。


 


 










 

【明和四年(1767年)11月20日の日記のくだり 帰り】
 二十日、未明に湊川を過ぎる。すべてこの辺の川は常に水が無い。
 雨が降るときは俄(にわ)かに来ると見えて、両方の堤は高い。中は砂ばかりである。
 次第に砂が流れ積もって川が高くなり、平地からは坂を登って川を渡るのである。
 楠公(なんこう)の碑は大道から北二町ばかり畑の中にある。我が水戸藩の先君義公の在るところである。
 碑は円首亀跌(えんしゅきふ)の二重壇にしてある。碑陰の分は大明(みん)の徴士(ちょうし)、朱舜水(しゅしゅんすい)の撰である。
 四、五間四方の室を造り風雨を覆う。瓦葺で前後は格子、左右は壁である。前に石燈二つ。高さ一丈ばかり。
 宝暦中尼崎侯の寄進である。

 楠公墓
 湊川建武の役 へい鼓(こ)乾坤を動かす
 殺気西風と競ひ 浮雲北極昏(くら)し
 腹心士卒を推し 忠がい児孫に及ぶ
 永くここに碑石を留め 人をして涙痕(るいこん)を掩(おお)はしむ
 「訳」
 建武二年、湊川の戦いには、楠正成はじめ勤皇の軍か諸所に起り、陣太鼓の響きが大地を動かした。
 しかし、賊軍尊氏も西方よりの反撃鋭く、朝廷は北に於いて浮雲の危機におちいった。
 この時、正成は志を同じくする武将等を激励し、その忠節は、子孫にまで及んだ。
 この碑は、その忠烈を長く留め、後人に感動の涙を流させている。


 それより十町あまり東、生田明神にいたった。
 神は稚目女命(わかひるめのみこと)で、神功皇后のときに勧請(かんじょう)。社領は二百石であるという。
 梶原の箙(えびら)の梅が祠前にあって柵でもって囲ってある。梶原の井も、敦盛の杖竹(つえたけ)もみな側にある。
 馬場は二百間、左右は桜の木か並列している。花の咲いた時が想われる。背、先陣して討死をした河原に兄弟の塚かある。

 生田川へ着いたころは夜も明けた。この川は布引滝の下流である。所々へ用水に分けとるので、砂ばかりで水がない。
 滝へはよほど隔たっているので行くことが出来ない。古歌に因(よ)ってはるかにその気色(けしき)をおもう。

 布引の飛泉に題す
 干尋布帛(せんじんふはく)の色 長く曝(さら)す碧山(へきざん)の隈(くま)
 織女機中の物 まさに銀漢より来るなるべし
 「訳」
 千丈も長い絹布を 昔から碧山の断崖にさらしている。
 この布を織っている織り姫の機(はた)の中の絹は、多分、天の川の織女からもらったものであろう
 


湊川神社
大楠公御墓所


「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字は義公作
 

義公像



生田神社
生田神社



生田神社




【明和四年(1767年)11月21日の日記のくだり 帰り】
 追分へ出て大津にて昼食す。馬を勢多につなぎ、石山寺に詣づ。
 往来一里斗也。寺内の黒石が盤結(こくせきばんけつ)、屈起してみがき立てたる如し。
 大悲閣は南向なり。後の岬の眺望よきところに亭あり。
 湖水の景色は奇絶也。紫式部を懐旧して、

  観音の高閣崔嵬(さいかい)に傍(よ)る
  千歳(せんさい)猶伝ふ?管(とうかん)の才
  髣髴(ほうふつ)たり須磨明石の色
  江風為に暮雲を払ひて来(きた)る

  (紫式部が源氏物語の筆をとったとされる)
  石山寺の観音は、高い山の頂きに傍って建てられている
  以来千年、今も紫式部の文才が言い伝えられている
  この風景は源氏物語の「須磨」「明石」の風景を思い出させてくれる
  きっとこの景色を見せようと、湖上の風が夕暮れの雲を払ってくれた


 勢多にもどれば黄昏なり。
  〜中略〜
 その日は草津にやどる。京ヘ廻りし人は夜半過ぎて来る。


源頼朝の寄進により建てられたとされる東大門
参道









硅灰石
建久5 (1194) 年に源頼朝の寄進で建立された日本最古の多宝塔


瀬田川の風景


 紫式部が『源氏物語』を起筆したとされる本堂



無憂園




 
 
 
 
 
 
 
柴野栗山先生の故郷を訪ねて 
讃岐高松藩の初代藩主、松平頼重は徳川光圀の兄であり、水戸藩とのつながりの深い場所でもあります。
その高松市の牟礼という町には、寛政の三博士の一人である柴野栗山先生の生誕の地があります。
栗山先生は赤水図の序文を記すなど、赤水先生との交流があっただけでなく、水戸藩のお殿様からも信任の厚い高名な学者でした。
また、その生い立ちは赤水先生と大変似たところがあり、同じような境遇に話も盛り上がったのでは?と勝手に想像しながら栗山記念館を訪ねました。
高松城
お堀の水には海水。中には鯛が泳いでいます
栗山先生の生誕の地は八栗山の麓にあります
栗山先生の生誕の地からは、屋島も一望
ケーブルカーから牟礼の町を見下ろす(ケーブルを登れば第85番札所「八栗寺」があります)
とても立派な栗山記念館
栗山記念館 記念碑
赤水先生の地図もちゃんとありました!
東奥紀行もありました
立原翠軒との書簡
大日本史が保存されています
栗山先生所蔵の貴重な書物がたくさんあります
柴野栗山先生の像
柴野栗山先生の像
受験シーズンになると参拝者で賑わうそうです
 柴野栗山記念館ホームページ
 











 栗山記念館の今雪館長にはコーヒーをご馳走になりました。         その節は、ありがとうございました!











































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